中年の危機について Stand Alone 自立と思い込み責任

子供の頃、親に依存したり学校に所属していたりと自立出来ていない自由のない自分をもどかしく思っていた。

子供なのだから周りの環境に守られて助けられていたのに、世の中の事を知らないゆえ自分一人でなんでもやって行けると勘違いしていた。(若さ故、輝かしい未来が待ち受けていると思っているものである。)

大人になれば、お金や法律、親や学校の束縛がなくなり、何もかもが自由になれると信じていた。

たしかに自由にできるお金は増えたし、18禁や成人の権利は獲得した。20代前後は大人の仲間入りして自立している自分が誇らしいと思った時期もあった。

しかしそれ以上に普通の大人は現状の環境に完全に囚われている。しがらみの中で生活していて、自らの行動範囲を狭めてしまっている。

精神的に会社の隷属者であるし、家族や友人、地域社会に対しても大人としての自分なりの「責任」を全うしようと頑張っている。

「責任」という一言で片づけられるようなものではないが、がんじがらめに自分自身を束縛しているのはその負っている「責任」に振り回されているからかもしれない

通常の会社員の場合、生活費を稼ぐために毎日会社に通勤して「仕事」をすることで責任を果たしている。「仕事」のレベルは人それぞれだが、最低でも会社を首にならないような業務を行う必要があるが、隷属している会社に対して必要以上の責任を感じて、時間と心身を捧げてしまってはいないだろうか。

最近は心の病や働きすぎで身体を壊す人の話をよく聞くが、給料以上の責任を感じて毎日を爆走している結果である。もちろん仕事を完結させなければいけないし途中で切り上げたりすることはできないが、もう少し効率を考え時間や予算を意識して仕事の品質を落としてもいいのかもしれない。

それだと会社の競争力がなくなって、働く場所がなくなるとか言われるかもしれないが仕事の品質レベルは十分という前提であれば、会社の競争力は既存事業をイノベーションさせて進化させない限りは保てないはずである。日本の大好きな伝統や歴史、品質だけだといずれ衰退していくことになる。

責任の話に戻ると、実際会社のトップである社長でさえ責任は有限で、会社が大きな損失を出しても会社を辞めることで大体の場合ことが済む。担当者や中間管理職の我々はもっと責任が有限であっていいのではないだろうか。もっとらくに楽しく仕事ができる環境が働き方改革の本質であると思っている。

 

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