中年になると長生きしている分、社会との繋がりが増えるし、家族友人も増えたり変化したりする。うまくいけば資産も増えたりする。
良いものが増えた気がするが実は増えたものに対しての責任も増えているのである。
例えば子供。子供を持つ幸せはたまらないものがあるが、それと引き換えに成人するまでは圧倒的責任が親にかかってくる。
金銭的な面から、社会マナー、勉学などなど数え上げればきりがない。
自分の親に対しても、親の老後の責任というものがある。親サイドからすれば子供に迷惑をかけたくないと思うところだろうがゼロにはならないだろうし、これは子供としての義務である。
仕事にしても然り、中年となると多少なりとも仕事における責任が課せられる。これも人によって大きく変わるが、この仕事や社会に対する責任とは、自分の存在意義とも言い換える事ができる。
人間は承認される事で自分の存在をより確実に確認する事ができるし、安心するのでやはり社会と接して生活する事が必要なのであるが、これこそが中年を束縛するものでもある。
承認されたい → 仕事する → 束縛される
結婚する →束縛される → 家族を作る → 責任が生じる → 束縛される
上記の通り、存在意義を確かめたいのであれば、束縛されることを許容しなければならない。
このループから流れるためには自分の存在意義を違う所に求めるか、達観するしかない。
公園などで生活されている方は、色々な束縛から逃れた人もいると聞く。
背負う責任が大きすぎたのであろうか。失う物と引き換えに自由を手に入れたのかもしれない。
正直羨ましく感じることもある。一度全てを放棄してしまうと元に戻るにはかなりの勇気と相当の努力が必要になるはずだ。
失って初めて気がつくこともある。いつになってもやり直しは効くとは思うが、やはりそれは本人次第である。
「因果応報」自分の行いは自分に戻ってくるのである。